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TONARIの 色撮り撮りの「野外彫刻」 |
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| 平和大通り芸術祭’26 |
2026/3/15 |
| 広島県広島市中区 平和大通り |
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平和大通り芸術祭というものが開かれているという情報を見つけたので、会期末に近いタイミングではあったが訪れてみた。
イベントは終了して展示だけとなっており、人が少ないので作品をゆっくり味わえる。
「青い鳥のさえずり」をテーマにしているようなので、それを頭に入れて歩いて巡ることにする。
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《波の先 a / c / d》《蕾》 大島由紀子 |
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人が座ったり、うずくまったり、うつ伏せたりしているようにも見える抽象的な石の造形が並ぶ。最後の《蕾》は花が開く直前のようで、どの作品にも細やかな“さざ波”のような彫りが刻まれている。その連続した彫りは、作家が日々の小さな幸せを石に積み重ねているようにも感じられ、私たち自身もまた日々の出来事の積層で形作られていることを思い出させる。ただ周囲が工事中でやや雑然としおり、芸術祭として認識されていたのかなと感じられた。
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《The Sound of A-Bombed Trees》 山本聖子
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愛宕池跡の被爆樹木の中に設置された音の作品。
点在するスピーカーからは、被爆樹木の剪定枝を彫る音が流れ、木が経てきた長い歴史を想起させる。時折聞こえる「PEACE」という声はAIによる自動生成だという。
歴史を背負った“実在の音”と、人が好きに作り出せる“人工の音”。
どちらも音でありながら、その重みは全く異なる。
実体のある彫り音と、意味を持つが実体のない声。
この対比は、意味あることを発しても、それに実がなければ意味がない、とも取れる。
ただ、視覚的な要素がスピーカーのみなので、通行人に気づかれにくいだろう。 |
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《Inhabitants》 三松拓真 |
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東へ進むと、動物と乗り物(バイク・自転車)が融合した3体の作品が現れる。
乗り物は本来“人が使うもの”だが、それと動物が融合すると、まるで新しい種の生き物のようだ。奇妙なはずなのに、風景に自然と溶け込んでいるのが面白い。
タイトルの“Inhabitants(住民)”を踏まえると、普段は大勢の中に紛れて気にも留められない存在が、名付けられ、特別な場所に置かれることで、羨望や嫌悪の対象になってしまうという示唆にも思える。
多様な存在を受け入れられる社会であれば良いのだが、現実はなかなか難しい。
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《Psychological Symbol 象徴》 岩本依蕗 |
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柳原義達の銅像《パンセ》の先の緑地帯に置かれた2つの造形。
洞穴の入口のような穴の空いた物体と、その穴を覗き込むような、モグラとも鳥とも亀ともつかない生き物の集合体のような形。
穴の先には実際には見えない原爆ドームという“象徴”がある。
広島で育つと、爆心地の方向を無意識に意識してしまうことがある。
これは他の地域の方には共有されづらい感覚かもしれない。
ただ、誰にとっても“象徴”となる存在はあるはずで、この作品はそれを考えるきっかけを与えてくれる。
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《Plateau_/and_/Axia 軸とプラトー》 佐野翠 |
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ビルのショウウィンドウに展示された作品。
プラトー(台地)は古来、信仰や秩序と結びつく場所であり、そこに象徴として彫刻が置かれてきたという。
中央には黒い物体に原爆ドームが描かれ、両脇には結晶のように光る白いビル群の造形。広島という都市を抽象的に凝縮したような印象である。
軸が斜めに傾けられているのは、都市が変化の途中であることを示しているのだろうか。
ただ、キャプションは難解で、一般の鑑賞者には理解しづらい。公共空間での展示であれば、もう少し平易な言葉が望ましいだろう。
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《Swaying 揺れている》 上田和 |
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南側の緑地帯に立つ、傘を差して屈む子どもの像。その指先には風に揺れるトンボ。
平和大通りという場所柄、“傘”は「核の傘」を連想させる。
子どもや傘を形作るパーツは鳥のようでもあり、戦闘機のようでもある。
私たちは軍事力という“傘”に守られている一方で、それが日常を消し去る危険も孕んでいる。
揺れるトンボは、世界情勢という“風”に翻弄される人々のようにも見える。
もちろん、キャプションにあるように素直に「微笑ましい光景」として受け取るのも良いのだが、広島での展示はどうしてもヒロシマを関連付けたくなるのである。
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《Confluence》 猪野日向 |
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西へ進むと、くり抜かれた男の子の木彫が立っている。
外形は兄、内部の空洞は妹──「青い鳥」をモチーフにした兄妹の“合流(Confluence)”を表す作品だという。
空洞は現代人の空虚な心にも見えるし、自己の内側にいる“他者”のようにも思える。
自分の中の空虚さを悩む人をネットなどで拝見する。幸いなことに私は自分の中に空虚を感じたことはないが、それは単に、空洞を埋める何かを持ち続けているだけなのかもしれない。作品を前にすると、そんなことをふと考えさせられる。
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《A familiar perspective》 乳井奎太 |
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歩道を渡った細長い緑地には、厚みのない仔犬の像と、折り紙のように平面で構成された男性像が置かれている。
仔犬は真横から見れば普通の立体に見えるが、角度を変えるとその認識が崩れる。
男性像も、ある方向からは自転車に乗る配達員のように見えるが、別の角度では紙片を折り重ねたような構造が露わになる。
私たちはどうしても“見慣れた見方”に縛られてしまうが、その固定観念を揺さぶるのが現代アートである。
ただ、人物像についてはもう少し造形の質を上げないと、人は人を見る目が肥えているので、違和感が目立ってしまう。
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《Our prayers》 田中圭介 |
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白神社前交差点近く、小さな舞台の上に立つのは、てるてる坊主を思わせる木彫作品。
初見は、ぬっと立ち上がる亡霊のようにも見えて少し怖い。
作者は“祈り”をテーマにしているが、祈りには尊さと同時に、時に怨念的な側面もあると私は感じてしまう。
だからこそ、亡霊のような第一印象は、私にとってはむしろ作品の核心に触れているようにも思える。
もちろん、作者の意図とは違うのだろうが、作品の受け取り方は人それぞれで良い。
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《overlap 季の重なり》 大川なずな |
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交差点を渡った先には、透かし彫りの木彫作品が立っている。
ケヤキの一枚板の表裏に、季節の異なるアオギリと鳳凰が彫り込まれているという。アオギリは被爆樹木の象徴であり、鳳凰は永続性を示す存在。
東側の面はアオギリの実が見えるので夏だろう。
反対側は季節は分からないが、女性像が彫り加えられているので、命を育む存在として読み取れる。
木は長寿だがいずれ枯れる。しかし実をつけて次代へとつながる。
鳳凰は何度も蘇る存在であり、人もまた命を継いでいく。そんな物語が静かに重ねられているように思う。
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会期後にこの芸術祭について調べてみると、高校生がデザインしたバナーが掲出されていたことを知った。思っている以上に周囲を見ていないものである。
街の中に芸術作品が置かれることは、とても良い。
好意的に受け取る人、邪魔だと感じる人もいるが、そのどちらよりも多いのは、おそらく“無関心”の層だろう。SNSでも感想は多くなく、その静けさがそれをよく表している
また、作品保護のためとはいえ、作品の周りのロープがどうしても展示の“格”を下げてしまっている。
メインビジュアルの「手で作られた鳩」を連続模様にしたテープにしてそれを低い位置に張ると、柔らかく境界線を示せるのではないかと思ったりする。
野外彫刻を観ることが多い身として、新たな作品が街に現れるのは素直に嬉しい。
期間限定であっても、風景の見え方は確かに変わる。
常設の彫刻が“風景の一部”として埋没していくからこそ、こうした新しい風は貴重である。
来年もあるのかな?また機会があれば、訪れてみたい。
一部厳しい意見も書いたが、私の個人的な見方なのでご容赦を。 |
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